「ほんっとーにごめんなさい!」
 ヴァージニティに、傍から見ている限りでは分からないほどに軽く小突かれると、リドルはとうとう、はぐらかすように明後日の方に流していた視線をこちらに向けて、開口一番にそう言った。両手を胸の前で合わせ、拝み倒すように平謝りに謝る。
「せっかくだから、シェルに素敵なバレンタインを過ごしてもらおうと思ったの! それは本当なの!」
 お願い、信じて…と瞳をうるうるさせながら、リドルは必死になってシェルを、それからカイルを、ケイを、最後にラルクを見つめた。その横ではヴァージニティが、呆れたような無表情でじっとリドルを見守っている。
 ラルクが記憶喪失になったことは間違いがないとして、いったい何故、急にそんなことになったのか?
 もうこれ以上はない、というほど取り乱した後、何とか気持ちを落ち着けたカイルは、結局そこに問題があるのだと思う、と指摘した。そこには、せめて原因が分かれば、ラルクを元に戻せるかもしれない、という淡い希望が抱かれていないでもなかった。が、実際問題として、
『何故ラルクは突然に記憶を失くしたのか?』
 というのは、重大な論点の一つだ。しかしカイルに思い当たる節などなく、ケイも同様。記憶を失っている当のラルクは問題外。ではシェルは、とカイルに話を振られて、ようやく彼女は思い出した―――別れ際にリドルにもらった小壜の存在を。
「おまじないみたいなものだから…って、聞いたの」
 そう言ってリドルを庇うシェルだったが、その表情に何かしら引っかかるものを感じているらしいのを見て取って、カイルにはぴんときた。
「それだ!」
 しかし、そうと分かったところで、彼女達にどうやってコンタクトを取ればいいのか。シェルが何か知っていないかと尋ねてみても、五日後に迎えに来ると言われただけだという。彼女が永遠の眠りから仮の目覚めを得た五日後、すなわち明後日。シェルは、それが『管理者』である二人の力の及ぶぎりぎりの範囲だと聞かされたのだ。どうしたものか、と皆で考え込んでいるとき、突如としてカイルは彼の結界の中に侵入者の気配を感じた。それも二人。まさか、と思って急ぎケイに出迎えの支度をさせると、そこにいたのはカイルの予想を違えず、リドルとヴァージニティだった。
「やはりこのようなことに…」
 そしてケイに案内されて部屋に入るなりヴァージニティはそう呟き、半ば無理やり連れて来たらしいリドルの顔を凝視したのである。さすがのリドルも、これには耐えられなかったらしかった。
「あー…もうしちゃったことは仕方ないからいいですよ」
 本当は声を張り上げて責めたかったが、今更そんなことをしてもどうにもならないのは、カイルも充分承知していた。
『なんてことをしてくれたんだ!』
 とか、
『あの兄貴よりも恐怖を感じる『人のいい兄貴』なんてモノを、よくも作りやがったな!』
 とかいった、言いたかったはずの数々の責め文句を無理やり飲み込んで、何とか穏便にことを済ませようと話を進める。
「…で、結局のところ、何をしたんですか?」
「それが…」
 カイルの問いかけに、リドルは一瞬だけ逡巡し、すぐに意を決して言った。
「媚薬を渡すつもりが、記憶喪失にする薬を渡しちゃった! …なーんて」
 右手で頬を掻きつつ、左手を背に隠し、ぺろっと舌を出してのリドルのその言葉に再び、押さえつけていたカイルの理性は吹き飛んだ。

「あ…あ…あんた…なんてことしてくれるんだよぉっ!?」
 滂沱として涙を流しつつ、リドルの胸倉をつかんで持ち上げる。ケイが慌てて止めに入らなければ、カイルはそのままリドルを締め上げていただろう。満身の力を込めてケイに押さえつけられ、魔物の頂点に立つといわれる吸血鬼であるカイルもさすがにリドルを放し、ぜぃぜぃと荒く息を吸って吐いた。呼吸が落ち着くのを待ってから、なんとか搾り出すようにして会話をする。
「…それ…で…治療…法…ある…ん…だろう…な…?」
「うん…それが…あるにはあるんだけど…」
 リドルはカイルの問いに、今度は明らかに躊躇して、ちらちらとラルクの様子を探った。自分が置かれている状況が分からず、分かったところで自分では打開策を見つけられず、どうすることもできずに、頼りなさげにシェルを見ている金髪金瞳の美しい魔物の姿を。それからその視線をゆっくりと、彼からシェルへと移した。彼女はリドルを見ていたらしく、二人の視線が交わった。ラルクの視線にまったく気づいていないのか、真摯の輝きが宿ったシェルの瞳。その真っ直ぐな眼差しに、リドルは追い詰められたような気持ちになって、とうとう告げた。
「それね…あの、皆で集まった夜に、魔導師の彼女達から、いろんな魔法薬の作り方を教わって精製してみたものなの。それで、彼女達の口伝によると…」
 そこで声を落とし、ぽそっというふうに続く言葉を落とした。
「…彼が、心から愛した女性と、口づけを交わすこと…」
 ぴしっ!
 それを聞いて、カイルは凍りついた。さすがに、もう叫びだす気力さえ起きない。
(…だって…どうしろっていうんだ、いったい?)
 カイルは、先程のラルクとの会話で彼が、
『見ず知らずの女性と一緒の部屋で眠るなんて出来ない』 
 と言ったときの彼の反応をまざまざと思い返していた。
 シェルに見つめられて真っ赤になっていた兄。
(あれは…間違い、ない、よ、な?)
 そっと盗み見ると、ラルクはまだシェルの横顔をぼーっと眺めていた。まるで熱に浮かされた子供みたいに、頬をほんのりと朱に染めて。
 これは、誰がどう見たって明らかだった。記憶を失ったラルクは、シェルに心を奪われたのだ。自らの恋人だった彼女に。


「…どうする、ケイ?」
 リドルとヴァージニティが帰った後、カイルは聞こえるか聞こえないかのぎりぎりの細い息でケイの耳元に囁いた。ケイは不思議そうにカイルを見る。
「どうするって…何が?」
「だから、兄貴だよ。今の兄貴、どう見たって、彼女に惚れてるよな?」
「うん。それはさすがにあたしでも分かるよ。シェルしか見えてないって感じだもん。あんなラルク、信じられないくらい気持ち悪いよ…でも、それって好都合なんじゃないの?」
「いいや、だって考えても見ろよ。」
 女性と一緒の部屋で眠ることに真っ赤な顔で抗議するような紳士的な振る舞いをする彼が、記憶ある頃の―――すなわち、今の自分とはまったく別の自分の恋人とキスなんて、するだろうか?
「う…そ、それは…」
 ケイが口ごもる。
「しかも、期限は明後日。シェルが『帰る』そのときまでだ」
 こんなことになってしまったが、彼女のこちらの世界への滞在期間は延ばせない、とヴァージニティは言ったのだ。
「…ねーカイルぅ、どうしよう〜?」
 涙声で尋ねてくるケイに、カイルはどう考えてもやけっぱちにしか聞こえない作戦を提案した。とにかく、やれることだけはやらなくては。あんな兄貴をもうこれ以上見ていられない。見たくもない。
 何も気づかずにいるシェルの微笑みにげんなりとしながら、カイルはこの事態を何とかする方法に、必死になって頭をめぐらせていた。


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